大高(鷲津山)時代 1961(S36)年10月:43歳〜1969(S44)年3月:51歳

坂野 心一朗
デッサン:母子003

当地改築のため、8年間住み続けた江明の借家からそれほど遠くない鷲津山の麓の三軒長屋に転居した。 三軒長屋といっても、今風にいえば二軒がくっついたテラスハウスのような造りで、そのうちの一軒のしかも1階を間借りしたものである。 2階には別の家族が住んでいて玄関が一つなので1階の部屋は2階に住んでいる人の通路も兼ねていた。そのため食事をしている最中でも容赦なく他人が脇を通り過ぎていく。 それでもこれまでの1部屋しかなかった住いに比べれば増しで、一応部屋が3つあり台所もありそこで食事もできた。 もちろん、アトリエも通路を兼ねていた。この6畳ほどのアトリエからおびただしいほどの作品が次々と生まれることになる。


デッサン:縛られる

代表作「赤い旗」は江明からこの地・鷲津山に移ったころに完成している。 大作「ノーモアU」(名古屋市美術館所蔵、レガシープロジェクトのウェッブにも紹介されている)をはじめとするノーモアシリーズのほとんどがこの時期に制作された。 「灰色の風景 架線」に代表される 灰色の風景シリーズもこの時期(1963年・昭和38年頃)から描かれその数は遺されたものだけでも三十点近くある。 このシリーズは比較的小品が多く、全く素人の私(当時中学生)でも欲しいと思うような絵がぽつぽつと見られるようになり、そういう絵は個展に並べられると決まって売れてしまった。 また、知多の丘シリーズという小品群(4号サイズ以下)もこの頃に描かれている。


三軒長屋の前の土手はここに転居したころは赤土で石ころだらけの荒れ地だった。絵を描くかたわら、コツコツと耕し花を植え、見事な花の咲く土手に変えてしまった。 道行く人たちがこの花を見上げボロの長屋を眺めつ往来するのがなぜか私の脳裏に強く焼き付いている。 ここに咲いていた「カンナ」を無性に描きたくなり父の絵具と筆を借りて見よう見まねで描いたとき、父は無言で筆を入れてくれた。そのひと筆で「カンナ」が妙に生き生きとしてきたのを覚えている。


デッサン:農婦03

大作、代表作を生み出したこの時期は作品数の上でも突出しており、遺された油彩270点余りのうちの180点(3分の2)はこの鷲津山の8年間で描かれたものである。 何と1年間に22枚近くの油絵を描き切った計算になる。個展も6回〜16回をこの時期に開いている。


毎年正月に開く個展が定着していったのもこの時期であり、少しずつではあるが理解者が現れてきた。

1965年・昭和40年3月には地域の新聞に「郷土の画家」として紹介された。 折しもこの年は2月にアメリカが北ベトナムの爆撃を開始した年でもあった。


前の江明時代は、開拓時代に得た結論を本当に実践できるのかという自分の可能性を試すためにがむしゃらに描き行動した。 その成果が一気に噴き出したのがこの鷲津山時代ではなかろうか。


絵のみならず、政治活動や美術集団の結成にもにも献身的に尽くしている(このあたりは関係諸氏のほうが詳しいので別項をご参照ください)。