コンミューンの夢

終章《芸術と社会変革と》

山田 三郎

江明から鷲津山の鶏舎を改造した家へ。その 6年間に堰を切ったように,おびただしい数の 作品が描かれる。


今,私の手元に個展で発表された作品の記録 があるが,それは制作年を示すものではない。 作品に即して,坂野さんの作品世界を,その変 遷を語るだけの準備が出来ていない。というよ り,一人の人間が画家として,自己を確立でき るかどうかの,命がけの修羅場をつかみかねて いる。喰うか喰われるかの瀬戸際であり,坂野 さんの生命が最も激しく燃えた時期である。私 の推測で,「精神を豊かにする事も人間の仕事 である」というような心境の変化が開拓8年に して生まれたとしても,それに値するだけの作品 が造れるかどうかが試されているわけであるか ら−。

デッサン:母子006

画家・坂野耿一の復活を祝う声が,この地方 の美術家たちの間で聞かれるようになった。旧 友や若い画家が握手を求めにやってくるように なった。コレクター酒井弘一氏があらわれた。 それは確かな手ごたえであり,自己の芸術に対 する確信であった。


坂野さんは江明にいた頃から,すでに地域の 文化サークルづくりに着手している。坂野さん が画塾でなく,サークル中心の創造美育を進め て来たことは,それが坂野さんの人間観,芸術 観を構成する重要な柱になっていることを意味 する。芸術は特別の選ばれた人間だけが創り出 すものではない。人には等しく能力が備わって いるが,様々の社会的制約の中で,その力が眠 っているに過ぎない。その眠りを覚ますことが 出来るなら,誰もが創造の歓びを分かち合うこ とが出来る。それが地域における文化サークル であり,専門家を含めたグループ8月の創設の 意味であった。

グループ8月が坂野耿一とはらたはじむ両氏 の力で出発したことは象徴的な出来事だと思う。 「人間解放」のテーマを坂野さんは宗教者の立 場から,同じ目標をはらたさんはマルクス主義 の立場から進めていて,二人が一つの美術団体 を組織することになったからである。

ところで,ここではっきりさせておきたいの は,私は今まで坂野さんを宗教者として扱って 来たが,それは坂野さんが「○○教」の信者で あったというつもりではない。妹・富美子さん は「私は信仰を持っていますが,無教会派の立 場です。兄もそうだったと思う」と語っている からである。

デッサン:捕えられる

私たちは,日頃,宗教的な儀式を見たり,そ れに参加したりしている。そこで思うことは, 僧の読経を集まった人が全く理解していない事 だ。法事の席で,老人が一座を代表して「般若 心経」を読み一同が唱和しているのを聞いてい るが,その漢語を読み下す経文の意味を理解し ている人は少い。それらは宗教的外被をまとっ た生活習慣としか言いようがない。こうした形 骸化した宗教が,なぜ今も人々の生活と共にあ るのか,私にとって長い間の疑問であった。私 がある程度まとまりのある仏陀に関する記述に 接したのは,J・ネルーの「インドの発見」に 於てであった。それには次の様に書かれている。

「仏陀は民間の宗教,迷信,儀式,祭官の策 略,並びにこれにまつわるすべての既得権益を 攻撃する勇気を持っていた。彼はまた形而上学 的な神学的な見解,奇跡,啓示,超自然力との 交渉を強く非難した。彼の訴えるところは論理, 理性,及び経騒であった。彼の強調するところ は,道徳であり,彼の方法は心理分析のそれで あり,霊魂を認めぬ心理学であった」

ネルーの仏陀に関するこの評価は,私にとっ て驚くべき事であった。私が仏教を含めた宗教 一般に対して非合理的なもの,超自然的,超人 間的なものへの人間精神の盲目的な屈服として 宗教を捉えていたからである。仏陀が戦ったも のが,正に私が従来否定的に考えていた宗教で あったとは−。そこから私の宗教をもう一度 見直そうという努力が始まった。

今は紙数の都合でこれ以上立入ることが出来 ないが,ささやかな努力の結果知り得たことは 「紀元前6世紀のインドに於てゴータマ・シッダ ールタという人間が説いたものは無神論である」 ということだ。

それはともかく,坂野さんが生涯の大部分を 宗教ないしは宗教的真理を支えとして生きて来 たことは間違いのない事実である。その坂野さ んが「宗教は阿片である」というマルクス・レ ーニン主義を指針とする党に入った。すでに42 才という年令に達していた。

坂野さんの生涯を通じて見てもわかるように, パトロン的な支持者もなく,芸術によって生き ることは,労働者以下,ことによれば必要最低 限の生活物資さえ危くすることを覚悟しかナれ ばならないのが実情である。その作品が時代精 神を深くとらえ,骨身をけずるようにして描か れたものであっても,商品として通用するもの でなければ,世間は無価値なものとして扱うだ ろう。芸術作品の価値とそれが商品市場の中で 占める価値との間には深い断絶がある。坂野さ んが心をこめて描いた作品をさし出した相手の 財布には絵を買うような金はなく,懐の豊かな 一握りの階層の人々には坂野さんの世界は無縁 であった。芸術家が単なる商品生産者と異るの は,作品がその時々の需用に応えて右にも左に も内容が動くものでなく,芸術家の世界観と密 接な関係を持ち,普遍的な人間的課題を追 求をすることによって成立するものだからであ ろう。しかし一方で一人の生活者として生命と 生活環境との維持に必要を生活物資は満たさな ければならをい。そこには,資本主義の生みだ す社会不安の中で生きる一人の小商品生産者と 変りない社会条件がある。レーニンのいう「日 々,刻々,その生活の1歩ごと」に生活をおび やかされて生きる零細企業者や商店経営者と変 るところがない。そこには追いつめられた生活 の不安だけが人間を支配し,人類共通の課題な どは立入る隙を与えない生活がある。この非人 問的な現実の中で生きる個々の人間にとっては, なんとか希望を失わずにこの場を切抜けたいと いう気特がせいいっぱいのところであろう。根 本的な社会的条件を変えるという「政治」の課 題ははるか遠くに押しのけられてしまう。そこ に宗教が生まれる源があり,そうした追いつめ られた人々がいる限り宗教は力を持ちつづける であろう。

デッサン:種を播く02

グループ8月が創設期の少数の画家を除いて 新たな活力ある専門家を吸収することの困難さ も,この事と無関係とは思えない。グループ8 月が単に創造団体であるばかりでなく美術とい う表現手段により現実変革の課題を追求するこ とを掲げて実践することの困難さである。多く の作家の気持は「政治に首を突込んでいる余裕 はない,自分の芸術的世界を確立させるのが先 だ」ということであろう。

芸術家が芸術家としての自己の主体性を守ろ うとするのは当然の要求である。私のような若 輩の発言では言葉の重みがないばかりか,白々 しく聞えるかもしれないが,作品を創るとい うことは,作品を通じて,他の人々との通路を 拓く問題であり,普遍的な人間のあり方を考え る問題であります。坂野さん,はらたさん,高 木さん,富田さんたちの,グループ8月との16 年間は,この「芸術と政治」との困難なたたか いであったし,今後もその困難さは止むことは ないでしょう。

もう一つの問題は,私のようなアマチュアの 参加の問題であろう。坂野さんは,よく「全体 的人間」と言う言葉を使っていた。人間の能力 に深い信頼を置いて,その成長をうながす言葉 として使っていたと思う。しかし理想主義的な 期待は裏切られる事が多かったのも事実である。 現実には,アマチュアと絵画など創造活動との かかわりは青年時代のごく一時期であったり, ほんの気まぐれ的に手を出してみたもので,描 き続けることの困難さにぶつかると極く気楽に 投出してしまう場合が多いからである。しかし それを批難することは出来ない。誰の場合も投 げ出したり,取組んだりの連続であるから−。 余暇時間がまだまだ不足だと言える場合もあろ うが,専門家とアマチュアが一つの団体で活動 する場合の主要な問題は,アマチュアの側の情 熱の不足に対する専門家の不信が決定的であり ます。人は等しく潜在的な能力に恵まれている といっても,長期にわたる(生涯にわたるとい った方が適当でしょうが)主体的な努力を前提 として言えることであって,怠惰を是認する言 葉でないのは当然です。私も働きながら絵を学 ぶ者として,アマチュアであるがゆえの蔑視は, しばしば経験するところでありますが,それを はね返すだけの強さを獲得したいものだと考え ています

坂野さんは大きな夢を持ってグループ8月を 組織し,そこで芸術家として芸術のみならず社 会と人間の変革をめざして生きて来ました。そ れは「重荷を背負って遠き道を行く」姿であり ました。道半ばにして倒れた今,坂野さんが抱 いていた課題は我々の前に残されているのです。  (S.52.5.16記)

引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行