坂野君を想う

山田 光春  (自由美術協会)

ぼくが坂野耿一君にはじめて会ったの は、1939(昭和14)年の春、瑛九妹杉 さんの紹介で堀田駅近くの柳枝町のぼく の下宿へ訪ねて来た時であった。絵の好 きな坂野君は愛商卒業後家業缶詰業の見 習いに京都の同業者の店に行き、そこか ら通っていた独立美術の研究所で杉さん を識ったのであって、ぼくの所へ来たの は、その店を退めて名古屋の実家に戻っ て来たばかりの時であった。当時の坂野 君は20歳を越していたのに、まだ少年の ようを純朴さを残した話し好きの元気を 若者であった。当時のぼくは2年前に創 設された自由美術家協会の会友としてそ の一員になっていたのに、名古屋におけ る絵描き友だちは、第1回の新文展に人 選していた師範学校以来の親友稲垣善之 君や、同じ町内に住む二科の尾沢辰夫氏 以外にはなかったから、こうして坂野君 が眼前に現われたことは大へんにうれし く、その諷然と訪れて来る姿を心待ちに 待つようになった。

デッサン:くだもの01

坂野君が自由美術展に作品を出品する ようになったのは、その年7月に開催さ れた第3回展からで、ぼくの脳裡には、 迫力に満ちた30号の裸体群像を措いて初 出品で奨励賞を獲得したその時の作品が 今も強く焼きついているのだが、どうし たことか、その後の出品作についての記 憶は消えてしまっている。その頃からの 坂野君はミレーに深く傾倒し、長島方面 などの農村へ出向いて、働く農婦などを 主題とした美しいパステル画を盛んに描 くようになっていたから、その後の出品 作もそうしたものであったのかもしれな い。それとも、あるいは早くも公募展へ の出品に対しての興味を失っていたのか もしれない。

坂野君につづいての名古屋からの自由 美術展への出品者は坂田稔氏、下郷羊雄 氏、田島二男氏等の写真家や、美校在学 中に油絵を帝展に出品しながら、その後 絵を描かなくなっていた沢建二氏などで、 これらの人たちの出品作はいずれも写真 作品であった。坂野君はそれらの前衛的 な写真家たちとは交友せず、自己の信ず る人愛に満ちた絵画芸術へ向っての足ど りをまっしぐらに、そしてこつこつと地 道に進めていったのだった

ぼくが下宿を大曽根に移した1940(昭 和15)年の春には、名古屋に一か月余り 滞在していた長谷川三郎がときどきやっ て来て彼一流の芸術論を展開して行った し、夏になると、 瑛九が名古屋に住み たいからとて宮崎から出て来て、ほぼ1 か月ぼくの部屋に居候していたから、坂 野君もよくやってきて、彼等と芸術論に 時を過したものであった。坂野君と長谷川 とは前年の自由美術展の会場で顔を合せ ていたかもしれないが、瑛九とは、京都 のその姉妹の家に出入りしていた頃から 作品を見話も聞いていたのに、会ったのは、 彼がその時ぼくの下宿に着いた折が初め てであった。掃除、炊事、洗濯をしに来 たという本ばかりつまった彼の行李があ まりにも重くて、2階へ上げるのに困っ ているところへ、ひょっこりとやって来 た坂野君がそれを苦もなぐかつぎ上げて くれたのが彼等の初対面であったという わけである。坂野君は瑛九がその後京都 の姉妹の家に移ってからも時々そこを訪 れて、一緒に風景のスケッチに出かけた り、近所の子供をモデルにたのんだりし て描くなどのこともしている。瑛九が、 ”愛の芸術を打ち立てるのだ”と意気ご んで研究所にも通い、さかんに写実的な 絵を描いて、それまでの東洋的志向の時 期から立ち直りつつあった頃のことであ るから、坂野君がそうした瑛九から何ら かの影響を受けたことは間違いなかろう。

坂野君が突然教員になりたいと言い出 したのは、太平洋戦争に突入してから間 もない時のことであった。ぼくにはそれ があまりにも唐突なことで面くらったが、 その相談にのって奔走し、1942(昭和17) 年の春には市立第三高等小学校の教職に ありついた。しかしそれも長くは続かず 名古屋が毎夜空襲に見舞われるようにな った1945(昭和20)年になると、そそく さと三河の奥の、宝飯郡一宮の開拓農場 に入植したのだった。

デッサン:子供007

敗戦をそこで迎えた坂野君は、それか らの8年間を土と闘って過し、結婚して 家族も次第にふえていった。ぼくがそこ を訪れたのは敗戦後1年はど経った時の ことで、5,6粁の道を歩いて坂を登っ たところに、坂野君が自力で建てたとい う、窓のすべてが10号とか20号のカンバ スの枠で出釆ている変った家があった。 ぼくはそこで絵に変えて作った農場と豚 や羊などを見、帰りにはひと抱えの彼の 育てたタバコの下葉を土産にもらってそ こを辞した。イタドリなどの葉を陰干し にした代用品ばかりのタバコばかりを吸 わなければならなかった頃のことだから、 それがぼくにとっての貴重な宝物であっ たことはいうまでもない。

大高の坂野君の新しい住まいをぼくが 訪れたのはそれから何年か経ってからで あった。坂野君は完全に画家としての生 活に入っていて、鶏舎を改造したその細 長い家の仕事場にはすでに何十点もの作 品が置かれていた。長谷川三郎も戦後し ばらく近江の長浜で鶏舎を改造した家に 住み、そこが町はずれの十里という所だ ったために「十里庵」と呼んでいたのだ が、坂野君がその住まいを何と名づけて いたかは知らない。そうしたことはとも かく、坂野君が中部自由美術のグループ に参加して作品を発表するようになった のはそれから間もない頃のことである。 しかし、その期間はさほど長くはなく、 同じ頃に創造美術の運動にも参加したが、 それもしばらくのことで終った。

街の片隅や工場などの風景の中に、心 の奥に突きささるような人物が坂野君の作品 に現われるようにをったのはその頃から のことで、やがてそうした小品が毎年正 月に毎日ビルの画廊の個展に並べられ、 グループ8月の展覧会で力作が発表され るようになった。ぼくにとってはその個 展会場で坂野君に会い、作品を見るのが 楽しみで正月には必ずそこへ出かけたも のであった。しかし、今年の個展の最終 日に訪れたぼくは、坂野君が甚だ危険な 状態で名大病院に入院していることを夫 人から聞かなければならなかった。そし てその翌日、坂野君はあの遠い世界へ旅 立ってしまった。

こうして坂野君は58歳という若さで短 い生涯をとじてしまったのであるが、そ の人間愛に満ちた特異な画家としての存 在は、底の方から輝いてくるその美しい 作品とともに、ぼくたち、坂野君を識る 者の心の中に、いつまでも生きつづける であろう。

引用書:「追悼・坂野耿一」1976年8月発行(グループ8月)