平和への思いをこめて

はらた はじむ  (自由美術協会)

そこに、輝く田の土がある。

黄金の穂波が風にゆれる。

ミレーに傾倒し、20才の若さで明るさに満ちた力作 「収穫」を描いた鑛一は、しかし絵に打ちこむ自由は許さ れず、京都へ行った丁稚(でっち)奉公の中で、寸暇を 割いて独立美術研究所へ通う。かれの一生を支配する寂 びたグレイの世界は、そこの須田国太郎の「黒」に大き く基をつくった。

戦中、山の生活への夢を抱いて愛知県宝飯郡一宮村字 炭焼に入植し開拓農民としての自己を成就させようとし たが、美術への心を消すことはできない。幼時に小児麻 痺をわずらった身に鞭打って激しい労働の中で座骨神経 痛に倒れ、やむなく山を下りた。画名も「耿一」ときめ て自己の道を絵と定める。

ゴヤの「戦争の惨禍」「暗い絵」が新しい伴侶となる。 しかも描くものは筆をとることだけでは真の美をつかめ ないのだ。居住地大高町に湧く民主化運動「勤労親和会」 への参加、池田隆介たち教師集団との協同、松浦貴美子 らのお母さんの会、それを拡大した文化サークルの中で 人形をつくり劇に参加し、さらに土をひねる。自由美術 展に出品し、さらに60年安保の直後、名古屋地方での会 派を超えた民主的美術家の創作をもっての結集を、率先 して呼びかける。「8・15記念展」さらにすすんで「グ ループ8月」の誕生もかれの存在を置いてもの言うこと はできない。

「ノー・モア」(1) (2) 、「中世」 。たて92センチ横182セ ンチの大作に「戦争はもう真ッ平!」の思いをこめる。 キャンバスをととのえる金もなくベニヤ板である。すぐ れたアイデアとそれを生かす造形的冒険、画面をはみで る迫力。総てをかれに捧げて働く妻、よしゑ。かげなが らの援助を惜しまない妻の姉、西川きん子。実の妹、中 村富美子。小学生で新聞配達をする健気な我が子。これ らに取り巻かれて生まれる数々のデッサン、小品の、と きには奇怪なまでの風貌にこもる人間愛。一方、身辺を 見まわし写実の筆をみがく。「犠牲者」「獄窓」の激しい タッチ。 「五日の日」 の明るい子ども。かれもその災害 をまともに受けた伊勢湾台風のころの 「はだし」 「仮設住宅」 「家族」 などは、より一層現実に肉薄しようとした佳 作である。日本アンデパンダン展に出品し、私、高木妃 賀、富田弘一らとともにリアリズム展を催す。

灰色の風景」という傍題をつけた一連の作品は、大高 町時代の後期から犬山、そして名古屋市東部の団地生活 へと、暮らしのまわりをさまざまに描きついだものであ る。「風景」ばかりでなく、民衆の生活のさまざまな様相、 器物、野菜、終生愛し、ともに遊び、教えた子どもたちの 生態、いろいろな花、鳥獣、昆虫、……ゆたかなひろが りを持ちながら、対象に謙遜過ぎるほど、総ての作為を 排除しようとする。

坂野耿一といえば、あの「小さくて美事な絵」の代名 詞で呼ばれるほどの晩年の名品群の中で、しかし 「プロメテウス」 「大地」 「ベトナム」 などの記念的な作品も生 まれる。

この時期、坂野は団体やサークルの拡充発展に先頭切 って旗を持ちまわる人ではなかった。人間関係の複雑な 心づかいを身につけ、どろ臭い世を押しぬいて「正義」 をひろめる強さを、かれはまず自己の芸術の追求に生か すのが道であると考えたようにも思われる。自由美術展 もアンデパンダン展も出品をやめた。年一回、名古屋駅 前ホルペイン画廊での個展、この地で開かれるグループ 8月展、あいち平和美術展、リアリズム展、に自由に出 す中で日本共産党入党。政治の革新へもともに力を合わ せる間に、ひたすら描いた世界は、絵画のダイナミック な構成や対比や量の追求よりも「質」の表現におのれの 天分を生かし、そこに精魂を傾けようとしたとも考えら れる。

かれが山へ入った思想の根底には、宮沢賢治があった と言われる。いや、宮沢のみならず仏典にも広くくわし かった耿一は、しかし人前ではついぞ宗教に触れること はなかったが、作品としては初期に顔をあらわす「しゃ れこうべ」以来、石仏「叢遍居士」「露光童子」…… かれにもっとも親しい理解者のひとり、酒井弘一と語り 描いたという晩年の「ろうそく」寺をめぐりさがし得た 燭台を、と生涯の諸所に点在する。坂野がこれらを単に 可視的な「物」、形や色の造形からのみとらえようとした のではないことは明らかである。ここにもかれは平和へ の切実な思いをこめようとしたのではなかろうか。

引用書:「坂野耿一画集」1980年1月発行(限定500部)