始めに
坂野 心一朗 (長男)
名もない一人の画家がこの世を去って30年余りになります。
「俺の絵は30年先にならないと理解されない。」と口癖のように呟いては
黙々と描いていたのを思い出します。
「どうしてそんなに暗い絵ばかり描いているのか?きれいな絵を描いて売ればいいのに。」
と、貧乏のどん底にあえぐ生活の中でよく陰口をたたかれました。でも、
「絵は心で見るものだ。絵は商品ではない!」と、周りの風評などに臆することもなく頑として描き続けました。
ばい煙のけぶる工場地帯を帰途に就く人々、
日雇い労働者、
逆さに吊された鶏、
猟銃で撃たれたひよどり、
血しぶきをあげて銃殺される場面、
赤旗祭りに集う群衆、
十字架を背負う骸骨の群れ等々。
ただ、その中にあってホッとする絵も描いています。
「灰色の風景」シリーズに見る小品群、「雪が降ってきた」、「たそがれる」などと動的なタイトルを添えた風景画、
台所の包丁やまな板などの静物、
団地で干し物をする母とその幼子等々。
毎年正月に開く個展が25回目を迎えこれからという時に、クモ膜下出血を発病し、志半ばにして58歳という短い生涯を終えました。
このサイトでは、自己に徹し人間愛に生きた「坂野耿一」の生涯・年譜・遺作品・画集・没後のイベントを紹介いたします。
いつのまにか父の歳を越えてしまいようやく公開に漕ぎ着けることができました。
本ページの大方の部分は父をこよなく理解し支えてくださった名古屋の「美術家集団」の機関誌等の記事から引用させていただきました。
ここにあらためて感謝申し上げます。
これを契機にさらに「坂野耿一」研究に努め内容を充実させていきたいと考えております。
ご批評、ご意見等遠慮なくお寄せ下さい。 (2009年4月8日)
8年間という区切りの中で
意を決して(家族の反対を押し切って)開拓農民となった年(耿一28歳の年)から8年毎のステップで転居を繰り返していることが耿一の年譜から分かります。
この区切りをもって年譜の時代区分を振り分け、そして、移り住んだ土地の地名をそれぞれの時代の名称にあててあります。
開拓地(江島村)で8年間を過ごした後、大高町(名古屋市)の江明で8年間、同町の鷲津山で8年間を過ごしています。
その後、犬山市で3年間、猪子石団地(名古屋市)でほぼ5年間(合わせてほぼ8年間)というステップです。
この8年間という区切りは耿一のこころの変遷と作品の傾向に深く関係しています。
転居のきっかけは様々ですが(大方は住環境を求めてですが)ステップを踏む度に、置かれた環境に根を下ろして自分を磨き鍛え挫折を乗り越え、着実に己が道を突き進んでいきました。まさにらせん階段を上るがごとく・・・。
家族の誰にも言えなかったこと
クモ膜下出血で父が倒れたとき私は正月休みで仕事先の岩井町(茨城県)から帰省していました。
「シンに話さなならんことがある...」と病床から言いかけた父は、しかしそれ以上は話しませんでした。
そして、それが何であるかを父の口から聞くことはついにありませんでした。
右足の跛(びっこ)は幼児期に冒された小児まひがもとなのだということを聞かされたのは亡くなってまもなく経ってからです。
そのことを父は告げたかったのだと思います。生前「学生の時に高い塀から飛び降りて挫いてしまった」と言っていました(家族の皆に)。
子供たちにも妻にも隠しとおさなければならなかったこのひとつの真実(その克服に注いだ努力と完治が叶わぬことへの悔しさ)を知り、
生涯を通して頑(かたくな)なまでに自己に徹し人間愛に生きた耿一の芯の強さの根幹をそこに見たような気がしました。
母のこと
「なんて純真な人なのだろう」、初対面の父の印象を母はこう振り返ります。
案内人に連れられてどんどん山奥に入って行き不安になりもう帰ろうかと何度も思ったそうです。
でも、とにかくひと目だけでも会ってみようと募る不安を抑えながら山道を上り、着いたところは何ともみすぼらしい掘立て小屋でした。
そこで待ち受けていた素朴な青年(父)を見て「それまでの不安がなぜかすうっと引いていった」そうです。
「この人について行ってみよう」、そう決心しました。これから待ち受ける幾多の困難などそのときは知る由もありません。
「もうダメ、わたし」、と鼻から流れ出る血を手の甲で抑えながら顔をしかめる母の姿を思い出します。
思わず手を出した父はせっかく描いたガラス絵を無言で土間に叩きつけて割ってしまいました。
貧乏のドン底にあえぐ毎日の暮らし。何とか食いつなぎ4人の子供達を小学校へ通わせなければならない。
母のいらだちは父にぶつけられ、父はそれを痛いほど分かっていたはずです。でも描き続けねばならない、たとえ今の暮らしを犠牲にしてでも...。
生活の糧を得るために母は奔走せざるを得ませんでした。「わたしはいい、でも子供たちにはひもじい思いだけはさせたくない」。この一心で耐えました。
性格的に合うはずもないセールスの仕事にも就きました、知人・親戚を訪ねて古着をもらい受け、旧版で間に合わせられる教科書があればはそれを譲っていただく。
なんどもなんども頭を下げて回るのです。さげすまれ後ろ指をさされることもありました。もういやでいやで仕方がありません。でも子供達のことを思うと止めるわけにはいかないのです。
「精神面では口では言えないくらい支えられていたような気がする、経済的な面は全くあてにはならなかったけれど...」。ひとつの家庭を守り抜き、
父の画業を足元で支え続けた母も今はもう亡き人となってしまいました(2005年8月1日永眠)。
でも、母の形象は父の遺した作品の数々に力強く生きづいています。
(このページ冒頭のカットにも母の面影が偲ばれます)
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