大高(江明)時代 1953(S28)年12月:36歳〜1961(S36)年9月:43歳

《大高へ……》

山田 三郎 (「コンミューンの夢」より)

愛知県知多郡大高町江明。奥さんの実家の離 れで新しい生活が始まった。坂野さんはひたす ら絵を描き続けた。当時のことを振返って,奥 さんは 「全く途方にくれました。7つを頭に4人もの 子供を抱えて,どうしたらいいか−。子供を かかえて鉄道に飛込んでしまおうかと考えたこ ともあります。とにかく主人は絵を描く以外何 もしないんですから。夕方,家へ帰ると,主人 は画の前に座りこんで一心に描いていますから ね……どうにもならをかったですよ」と語る。

引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行


《貧困と戦いながら》

坂野 心一朗
デッサン:子供005

父・鐡市の死により金銭的な援助は断ち切られた。 4人の子供たちは次々に小学校に通いだしたが教科書や洋服はみなお古だ。 子供たちが新聞配達をして稼いだわずかばかりのお金のほとんどは学校の月謝に回された。 三度の食事もままならないほどの困窮状態が続く。

妻・よしゑは生活の糧を得るために慣れない化粧品のセールスに出た。 「子供たちには何としてもひもじい思いだけはさせたくない。」その思いだけで歯をくいしばって頑張った。 耿一も稼ぎに出たことはあった。しかし長続きはしなかった。慣れない仕事場で熱い蒸気を浴びて背中にやけどを負ったのもこの頃だ。


デッサン:新聞を配る01

大高に転居する前の開拓地での8年間の生活の中で得た結論。それは次のようなものであった(山田三郎氏の文を再度引用)。

『・・・あれほど若い俺を苦しめていた言葉,≪お前のやっている事は遊びだ,道楽だ,くその役にも立たん。皆んなが額に汗して働いているというのに−≫胸につきささる母親の言葉,世間の言葉,そして自分自身の内心の言葉。それらは今,やっと消えた。 ・・・「荒地を耕して美田とするのが農夫の仕事ならば,人間精神の荒野を拓いて人間のあり方を示すのも人間の仕事である」・・・』


「世間に何と言われようが俺はこの道を進む。人間の心を耕して人間のあり方を示す、そういう人間を自分の中に創り出すのだ。」 耿一に迷いはなかった。その実践は貧困との闘いの中で進められた。

物が描けないのにその心が描けるはずがない。また物が描けるようになったとしてもまだその心を描く準備が出来たにすぎない。

耿一は描いた、何十枚・何百枚ものデッサンを。使い古しの半紙や広告紙の裏、包み紙の切れ端など描けるものには何にでも描いた。 畑で農作業をする人々、彼らを包み込む広々とした丘陵風景、生活の中に融け込んだ家畜たち、無邪気に遊ぶ子供たち、自ら育て上げた草花など、日常目にする大方の「物」を精力的に描いた。 パステル、コンテ、ペン、ガッシュ、水彩など様々な技法を試み、ガラス絵も手がけた。抽象画のデッサンにも挑戦している。

デッサン:仮設住宅01

「伊勢湾台風」(1959年・昭和34年9月)に遭ったが幸い床下浸水で済んだ。だが、海側の天白川辺りは無残すぎるほどの被害をうけた。 そのときのデッサンが残されている。堤防のあちこちに並べられた水ぶくれの死体、家を失った人たちの仮設住宅、濁流と共に住宅を容赦なく突き破っていった丸太の山々・・・。

『「物」の「心」までをも描き込むことが一体俺にできるのだろうか?』それは自己鍛練の連続でもあった。


「人間の心を耕す」行為は何も絵だけではない。耿一は町の文化活動にも献身的な足跡を残した。

大学生を中心とした文化サークルの育成に努め、人形劇団「きのこ」を結成した(1958年・昭和33年3月)。舞台も人形も台本もすべてが手作りだ。監督をし自ら演じもした。 からくり人形の顔を描いたデッサンが数点残されているがおそらくこの時期のものであろう。

デッサン:母子001

コーラスグループ「コーラス・エコー」発足にも尽力し、クリスマスの日に人形劇とコーラスで親のいない子供たちの施設を慰問したり、公民館で講演したりした。

母親の会で知り合ったMさん(化粧品のセールスで妻・よしゑが訪問した際に耿一の話が出、その生き方に共鳴するものを感じたことが直接のきっかけであるという) の二女の芸術に関する宿題の相談にも親身になって答えている(「Mさんへ」)。


これらの数々の実践は金銭的な見返りのないものばかりである。貧困はますますその度を増し『家族の皆が何らかの栄養失調に陥っていった』。 喫茶店で小品を並べることもした。1959年・昭和34年の3月には初めての個展を開いた。その後ここを越すまでに4回の個展を開いている。 だが、いわゆる商品としての絵にはほど遠い耿一の作品が生活の支えになることはなかった。 皮肉にもこの時期、日本経済は戦後高度成長を遂げ「神武景気」、「天の岩戸景気」といわれる好景気の波の中にあった。


デッサン:母子002 デッサン:家族02