犬山時代 1969(S44)年4月:51歳〜1972(S47)年4月:54歳

坂野 心一朗
デッサン:かかし01

耿一の絵を理解する人が少しづつではあるが増え、毎年正月に開かれる個展は彼らの仲間内ではすっかり定着していた。4人の子供たちは1人、2人、3人と年を追い高校を終え就職していった。暮らし向きもいくらかではあるが良くなってきた。 そんな折、長屋取り壊しのため8年間住み続けた鷲津山の借家を出ることになった。 たまたま犬山市にある妻・よしゑの妹・正子の家が空いていたのでそこを借りることになる (当時、正子の家族は夫の仕事の関係で全員が横浜で仮住いをしていた)。門扉、庭付きの一軒家である。ここの6畳間にアトリエを構えた。


鷲津山の頃から手掛けていた「寓話 プロメテウス」が完成したのはこのころである。 プロメテウスについては山田氏が「追悼」の項で触れているのでそちらを参照していただくとして、ここではプロメテウスが磔にされている巨大な岩について当時の私(高校生)の印象を添えておく。 実はあの巨大な岩のモデルは手のひらの上に乗る程度の白っぽい石のかけらだ(確か花崗岩だったと思う)。しばらくの間アトリエの絵具箱の上に置かれていたのを覚えている。 この印象が強いものだからプロメテウスが妙に小さく見えてしまう。このズレた感覚は今でも戻らず当時のままである。


デッサン:犬山城01

「寓話 プロメテウス」に見られるように、これまでの鷲津山の頃の激しさは昇華されつつあった。ベトナム戦争の惨禍を象徴的に描いた 「ベトナム」や 「ノーモア.少年」は包み込むような包容力と柔らか味に満ちている。

開拓時代に得た結論 《生きる意味》 を大高(江明)時代で試論 《自己鍛練》 しその成果の 《実践》 を大高(鷲津山)時代で果たし、いまこの地で 《清濁併せ呑む》 耿一独自の《弁証法的美学》が生まれようとしているのだ。 (山田氏はこれを『愛』のひとことでいいきっている)。


ここ犬山の借家でも花作りは続けられ、整理された庭が花いちめんに埋め尽くされるのにさほど月日は要さなかった。 横浜市に就職し茨城県の工場で働くようになった私は帰省の度に「今は何が咲いているのだろう」とわくわくしたものだ。 父・耿一に球根(確かカンナ、ダリヤ、それにグラジオラス)を届けてもらい会社の独身寮の横にある荒れ地に植えたのもこのころだ。多少形は悪かったが一人前に咲いたときは嬉しかった。


五十代半ばにして耿一はまたまた転居することになる。その地が最期の住いになろうとは...。